1996年のピンボール。

NOHALAのギタボ。RAYのブログ。

僕は嫌なやつかもしれない。

NOHALAギタボRAYです。

今回は最近の日常のカオスを赤裸々に書かせて頂きたいです。

 

で、タイトルね。今更かよwって思ってる方もいるかもしれないです。でもこのタイトルは決して自己憐憫的ナルシズムからではなくて、ぼーっとしていてよぎってきた考えです。ごめんなさい実際は少しそうかもしれないけれど少しだけカッコつけさせてくださいね笑

 

最近引っかかることがあまりにも多い。

ある方に言われた言葉「音楽で食うって何だ?説明してみろ。それが即答出来なければお前はまだそれを理解してないってことだ。」

分からなかった。

「音楽で食う。」

分からない。分からねえよ。マジで。

ということで年齢関係なしに自分の尊敬できる人と会った時に聞いて回った。「音楽で食うって何ぞや」と。

返答はみんなそれぞれだったけど、それはみんなそれぞれの「お茶の濁し方」だった。

「俺もまだまだだし本当に売れてみないと分からないな〜」とか、「でもその人は食えてるのか?」とか、「そんなことよりタバコ持ってない?」とか。。笑

バンドマン視点で端的に言えば、需要があって。音源・マーチの売り上げとか、ライブの売り上げがそれだけで生活できる水準に達するだとか、ミュージシャンとしてバックで演奏して稼ぐとか色々定義できるけど。腐ってもロックというカウンターカルチャーを担っている端くれとして僕はそれ以上が欲しかった。

賢く生きていくほどの頭もルックスもない。せめて唯一無二オンリーワンでありたいとのたまうワガママ坊やが僕だ。それが正解かは分からないけど、死ぬまでそうありたいとは思ってる。というか理想像なんです。それが自分のベストなスタンスだと思っている以上それで結果で示すしかない。

 

そんな僕も本当にありがたいことに食える食えないは関係なしに「音楽で生きている人たち」と一緒にやらせて頂く機会をもらえるようになった。そういう機会が僕の意識を締め上げて、強くしてくれている。

「売れてみなきゃ分からない」ってある意味正解かもしれないと思った。僕にしても機会をもらえなければ永遠に漠然としたイメージのまま根拠のない自信のみがこの手にあったかもしれない。「いつか、いつかは」ってずっと死ぬまで繰り返していたかもしれない。

今はほんの少しだけど、経験と覚悟が入り込んできたと思う。覚悟あるバンドマンたちを間近で見て、自分の弱さを直視した。でもヒヨッちゃったわけじゃない。ワクワクした。同じ土俵に立たせてもらえてることに。

そういう出会いに感謝しています。特にSTUDSの皆さんには企画に出て頂いたり、本当に良くしてもらいっぱなしの2018年だった。

そして「音楽で食うとは」と聞いてきた方も僕に何らかの期待を持って語ってくれたと拡大解釈させて頂いております。。

 

いいライブを観させてもらうことも増えた。

この前は10代から立川などでお世話になっていたWAFYのデモ発に行った。もう今までのイメージしていたWAFYはそこにはいなかった。

MCでも言っていた通り、WAFYのステージは自分の「芸術」を一生懸けて追い求める旅だった。

ボーカルの新さんはいつも、最後の曲を歌い終えると何も言わずひとりでにステージを去る。

僕には到底真似できない。真似したって何の意味もない。それは僕の解釈なら新さんなりの「音楽で食う」だから。

結局、軽いノリで聞いてみたって誰も教えてくれしない。その人のステージを観ないと「音楽で食う」なんて分かりっこねえって思った。

だから自戒の念も込めて、気になるバンドのライブには積極的に行くべきです。その人なりの哲学が現れるから。それが感じ取れなかったらそいつらは偽物だと決めつけるのもライブに行った人の自由です。

バンドは常にジャッジされるものです。これは大好きな小説ロッキンホースバレリーナ - Google 検索にも書いてあります。哲学と言うと堅苦しいけど、終始バカなのも終始意味わからないのも哲学です。それはどこまでも自由で良いんじゃないでしょうか。犯罪はダメですけど。。

 

あ。僕は嫌なやつかもしれないって思ったキッカケですけど、ヘラヘラ「音楽で食うとは」について聞いて回ったことに対してでもありますが、もう一つ。

この前、一応学生である僕があまりにも大学に無関心で卒業のために必要な単位などを整理するために藁をも掴む気持ちで学生相談室に何となく入ったときのこと。

迎えてくれたのはまだ若い素朴な新人の心理士の女性。応接間に通されて、何について悩んでるのか用紙に記入してから相談が始まる。勿論現実的な単位についての相談が主旨なのだけど、何となく話がしたかったから進路についても悩んでいると記入してみた。

程なくして話を始め、「実は私は学校のシステムについては詳しくないのだけど、出来るだけ力になりますから」と一緒にシラバスを持って調べてくれた。中には既に知っていた内容もあったけれど、真摯な姿勢に心を打たれたので調子を合わせて知らないフリをした。「教務課に行けばいいのだけど、いきなり行くのは勇気がいるよね?」と気遣ってくれたからいつもより1.5倍気弱な自分を演じた。

決して偉そうな様子も見せず、謙虚な方だったから人として好感が持てたし、やりづらさはあれど、心地よい気まずさではあった。

一通り頭を整理できたので引き上げようとしたところ、進路に悩んでいることについて聞かれたのでしどろもどろながら答えた。要所要所でメモを取り「〜だから悩んでいるんだね?」と確認してくる。

僕は知っている。それは「傾聴」と呼ばれるカウンセラーのテクニックの一つのようなものであると。そして、それと同時に昔の記憶がフラッシュバックしてやって来た。

話すと長くなるので簡潔に言うと、僕は昔から「問題ある子供」の扱いをされてきて、ずっとカウンセリングに通わされていた。そしていつも「〜なことがあると嫌な気持ちになるんだね?」と「傾聴」されてきた。そして一定期間経つと、教習所の運転適性検査のようなテストを解かされて、「お宅の息子さんは多少能力にバラツキはありますが、個性の範囲ですし何の異常もないいい子です。」と言われて母さんとトボトボ帰路に着いた。それで終わり。でもまた学校で問題を起こしてカウンセリングに行けと命じられる。その繰り返し。

普通の子よりは多少「アクティブ」だったろうけど、ぶっちゃけそんなに生き辛さを感じたことは無かった。正直全力で拒否すれば行かなくても良かったのかもしれない。でも、カウンセリングに通うことはさほど苦痛ではなかったし、むしろ趣味になりつつあった。

僕は天邪鬼だからたまに絵を描く療法(家を描いてみてとか言ってその絵で自分の無意識を観る狙い)では、わざとグチャグチャに描いたり、火事で燃えて取り残された人が必死に助けを求めている家を描いたりしてカウンセラーを困らせたし、最悪なガキだった。でも、本当に困った時カウンセラーに真剣に相談したこともあったし、とにかく甘えていたんだと思う。

ある日カウンセリングの一環として、ある大学の心理学の教授とお話しすることがあった。当時13歳くらいの僕はまた何となく「クラスのやつら全員が嫌いだし教師も全員死ねばいいと思う」と思ってもないことを言ってみた。

すると、教授は驚きもせず、「何故嫌いなのかな」と聞いてきたので、細かい校則を守らせることに必死だからとか、委員会の選挙に教師の裁量で不正があったこととか。今度はなるだけ真剣に答えた。

そして、そんなみんながみんなガチガチになったルールを守り、投票という民主的な手法を取りながらも結局、波風立てない生徒が教師によって選ばれる予定調和のような雰囲気が漂う共同体は危険だと思っているとも。

教授は「君は2割の人間だ。世の中には2対8の法則がある。8割の人は今まで通りのルールを守ろうとする人たち。そして残りの2割はそれの悪いところを見つけて壊そうとする人たち。君は秩序を守る8割の人間に感謝して。誇りを持って言いたいことを言いなさい。

大切な時、ケンカできない大人は信用されないからね。

あと、君は死ねばいいと言ったが本当にみんな死んじゃったら寂しいんじゃないかな?」と話してくれた。この言葉が今でも忘れられない。僕は結局カウンセラーに助けられてきた。

 

また悪い癖が出て、大学のことで心配してくれているカウンセラーさんを「僕は甘ったれているダメ人間なだけで僕自身が解決しなきゃどうにもならないと思う」と突き放してしまった。カウンセラーさんには「ヤバくなったらいつでも来てください。私はあなたがとても心配ですから。」と言われて、それを言われたいが故なのか、本心なのか自分でも分からない。

僕はいつもカウンセラーに対して半分甘えて半分真面目だ。いつも中途半端で自分にうんざりする。嫌なやつだなって思う。

 

僕は「傾聴」が半分好きで半分大嫌いだ。

 

僕はカウンセリングを受けなくなってからも、何かあるたびに試しに相談室というところには通ってみている。半分真面目に、半分サイコロを振るような気分で。

ありったけ話すと今度は何だかバカらしくなって、切り上げてしまう。終わってみると半分すっきりするけれど、半分虚しくなる。

例えが悪くて申し訳ないけれど、身体だけの関係のような。寂しくてヤケクソで入ったピンサロのような。彼ら彼女らを半分人間として、半分医者のようなものとして見てしまうから。

 

そうやって、煮え切らない気持ちで過ごしているのはまだ僕がカウンセラーさんに、人に甘えているから。ヘラヘラ答えを聞けば教えてくれると思っているから。

カウンセラーもバンドマンも「仕事」にその人な本質が現れる。そういう姿勢で考えることが出来れば僕は不貞腐れずにもう少しだけいいやつになれて、もう少しだけ前を向いて歩けると思った。

乱暴な持論だけれど、好きなバンドに対してもカウンセラーに対しても、100パーセントで思いの丈をぶつけてみて、それでもって自己解決、解釈へ向かうってのが本筋かと最近思えました。なかなか難しい問題かもしれませんが。

 

最後に僕が虚しさを感じる時のBGMを紹介します。

相変わらず90年代ですみません。

これ100パーセントの熱量が詰まってます。

マイナスをプラスに変えてくれる感じがたまらなく好きです。歌詞を読むには全く解決してないかもしれないけど。。笑

怒りをここまで昇華している時点で素晴らしいと思います。エモの権化です。是非。

 

今回も長い文章にお付き合いありがとうございました。